個人主義の意味
日本国憲法の講義を聴く機会がありまして、その時に、私が幼少の頃より感じていた日本社会の息苦しさの原因を発見しました。原因が判明しても問題が解決するわけではありません。しかし、スッキリ理解できて、清々しさを感じてます。
私は講義を聞くまで、個人主義の意味をなんとなくの感覚でつかんでいました。なんだか、他者の利益を犠牲にして自己の利益のみを追求する姿勢で、身勝手な人というような・・・かなりネガティブな意味で理解していたのです。
ここからは、日本国憲法の前提とする個人主義を私のつたない理解で簡単に説明いたします。
日本国憲法は、「個人主義」を前提につくられています。まず、人々が共存する社会において、「公」と「私」を分け、公に属するルールについては、選挙て選ばれた国民の代表者達により全ての人に適用されるルールを決めます(法律のことです)。
一方、私に属すること、例えば、誰を愛し結婚するのかしないのか、子どもをもつのかもたないのか、どのような人生哲学*1を信じるのか信じないのか、はたまた、今日のランチに何を食べるのかといったことです。私に属することは、個人々々が決定すべきこととされていて、その決定は尊重されるべきことという意味も含みます。これが、日本国憲法にいう「個人主義」です。
講師の方も慣れたもので、長年の教育現場の実感から、憲法にいう「個人主義」は日本社会には浸透していないとの感想でした。「個人主義」に対する受講者の反応は、私に属することは自分て決定せよといわれてもどうしていいかわからないや、良き生き方を示してくれない社会は冷たいと感じるといったもののようです。(← 憲法にいう個人主義を前提にする者からいえば、あたなの自己に関する決定が尊重されますというのは、最大限の敬意を払われているというのにです。)
それで、ここからは私のゆる~い分析です。
私の以前の個人主義の理解は誤りで、正確には利己主義のことでした。さらには、私の主観的感覚は、憲法にいう「個人主義」(私の領域に属することは、自分で決める。)を前提にしていたことに気付きました。なので、日本社会における人間関係は、過剰に他者の領域に介入することを当然としており(ひどいときには、他者の領域への介入することが美徳みたいにいわれる。)、息苦しさや付き合い辛さを感じていました。驚きなのですが、憲法の講義を聴いたことで、息苦しさの原因を自覚できたのです。それまでは、なんだかわからないけど、他者との感覚が違いすぎて息苦しいと思ってました。
どうも日本社会の慣習は、全体主義に近いように感じます。全体主義とは、個人主義の対義語です。その内容は、個人の全ては全体に従属すべきとする思想・政治体制*2です。この思想のもとでは、全体の利益を個人の利益より優先するだけではなく、個人の私生活なども積極的・強制的に全体に従属させられることになります。
例えば、和の精神(これ自体は悪くないと思います。)を極端に強調して、個人をつぶしてしまうことです。うまく説明できませんが、日本社会の人間関係では、同調圧力が強すぎて個人の脅威にまでなるときがあると感じます。
これ以上の分析は省略します。私としては、なんだか分からない息苦しさの原因が解明されたことで十分です。(※ エイブラハム流引き寄せの法則からしても、自分の外側の世界に向けて行動し改革を試みるよりも、まず、自分の思考を調整する方が最優先なのです。)
というふうに、憲法にいう個人主義がスッキリ理解できたところで、やっぱり個人主義の方が心が自由でいられるんだけどなぁ~と思います。